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倭国や邪馬台国、古代日本史に関連する事項を年表にまとめました。
当時の中国・朝鮮半島の歴史書を中心にまとめました。日本側の資料(『日本書紀』等)は比定が難しいため、西暦500年以降のものをまとめています。
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西暦 | 出来事 | 出典 |
紀元前2世紀から 紀元前後ごろ | 倭人が定期的に楽浪郡を介して前漢王朝へ朝貢。 100余国を形成していた。 | 『漢書』地理志 |
紀元前50年 | 倭人が侵攻してくるが、新羅・赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。 | 三国史記(新羅本紀) |
紀元前20年 | 春の二月に新羅は瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。 馬韓王が瓠公に「辰韓・弁韓は我が属国だったのに、近年は貢物を送ってこない。大国に仕える礼儀が、これでいいのか?」と言った。 これに対して瓠公は、「わが国は二聖が国を建ててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので、辰韓の遺民から、卞韓、楽浪、倭人に至るまで恐れ、かつ、従わないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼儀というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を以て脅かすのは、これ何の意味でありますか?」と言った。 馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。 これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。彼らの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。 瓠公という人は、その族姓は詳(つまび)らかではないが、元は倭人で、初め瓠を腰に吊って海を渡って来たため瓠公と称した。 | 三国史記(新羅本紀) |
14年 | 倭人が兵船100艘余りで新羅に攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。 しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。 | 三国史記(新羅本紀) |
57年 | 倭の奴国王が後漢に朝貢。 光武帝より「漢委奴国王」の印綬を下賜される。 | 『後漢書』東夷傳 |
57年 | 新羅の第四代王の脱解は多婆那国で生まれた。 その国は倭国東北一千里にある。 | 三国史記(新羅本紀) |
59年 | 夏の五月に倭国と修交し、使者を派遣し合った。 | 三国史記(新羅本紀) |
73年 | 倭人が木出島を侵して来たので、新羅王は角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した。 | 三国史記(新羅本紀) |
107年 | 倭国王帥升が後漢へ遣使。 生口(奴隷)を160人献呈。 | 『後漢書』東夷傳 |
121年 | 夏の四月に倭人が新羅の東の辺境を攻めた。 | 三国史記(新羅本紀) |
122年 | 夏の四月に都の人々が倭兵が大いに来ると噂して、争って山や谷に逃れたので、新羅王は伊飡翌宗等に命じて諭してこれを止めさせた。 | 三国史記(新羅本紀) |
123年 | 春三月に新羅は倭国と講和した。 | 三国史記(新羅本紀) |
158年 | 倭人が交際を求めて新羅を来訪した。 | 三国史記(新羅本紀) |
173年 | 倭女王卑弥乎が使者を遣わして交際を求めて新羅を来訪した。 | 三国史記(新羅本紀) |
193年 | 六月、倭人が大飢饉となり、食を求めて1千余人が新羅に流入した。 | 三国史記(新羅本紀) |
2世紀後半 | 倭国大乱 | |
208年 | 夏四月、倭人が新羅の国境を侵した。 一等官である伊伐飡に取り立てた王子の昔利音を遣わし、兵を将いて、これを拒ませた。 | 三国史記(新羅本紀) |
232年 | 夏四月に倭人が新羅の首都金城を包囲した。 王自ら出陣して、倭人は潰走した。騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。 | 三国史記(新羅本紀) |
233年 | 五月、倭兵が新羅の東辺を侵略した。 秋七月、伊伐飡の于老と倭人は沙道で戦い、風に乗じて火で船を焚くと、賊は水に飛び込んで全員死亡した。 | 三国史記(新羅本紀) |
233年 | 新羅の助賁王の四年の七月に、倭人が侵攻して来たので、昔于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。敵は溺死してほとんど全滅した。 | 三国史記(列伝) |
238年 | 女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出る。 帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。 皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。 | 魏志倭人伝 |
240年 | 帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。 | 魏志倭人伝 |
243年 | 女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝は掖邪狗らを率善中郎将と為した。 | 魏志倭人伝 |
245年 | 皇帝は帯方郡を通じて難升米に黄幢を下賜するよう詔した。(実行されていない) | 魏志倭人伝 |
247年 | 帯方郡に、新太守の王頎が着任。 女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。 太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。(派遣は245年時の報告による) | 魏志倭人伝 |
249年 | 夏四月、倭人が新羅の舒弗邯の王子昔于老を殺した。 | 三国史記(新羅本紀) |
253年 | 倭国の使臣、葛那古が新羅に来訪して客館に滞在していた。昔于老はその接待の役に任ぜられた。 彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。 倭王はこれを聞いて怒り、将軍の于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。 昔于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。 倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、昔于老の子は幼くして、よく歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。 この子は後に訖解尼師今(十六代王)になった。未鄒王(十三代王)の代に倭国の大臣が来た時、昔于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うや、力の強いものに彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、勝てずして引き返した。 | 三国史記(列伝) |
266年 | 倭の女王が通訳を重ねて朝貢した。 | 『晋書』武帝紀 |
287年 | 夏四月に倭人が新羅の一礼部を襲う。千人を捕虜にして立ち去った。 | 三国史記(新羅本紀) |
289年 | 夏五月に、新羅は倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 | 三国史記(新羅本紀) |
292年 | 夏六月に倭兵が新羅の沙道城を攻め落とす。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。 | 三国史記(新羅本紀) |
294年 | 夏、倭兵が新羅の長峯城を攻めて来た。 | 三国史記(新羅本紀) |
295年 | 春、新羅王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、倭を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。 王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 | 三国史記(新羅本紀) |
300年 | 春正月に、新羅は倭国と使者を派遣し合った。 | 三国史記(新羅本紀) |
312年 | 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、王子の通婚を要求した。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利の娘を嫁として送った。 | 三国史記(列伝) |
344年 | 倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った。 | 三国史記(新羅本紀) |
345年 | 倭王は怒り、二月に国書を送って新羅との国交を断絶した。 | 三国史記(新羅本紀) |
346年 | 倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して新羅の首都金城を包囲攻撃した。 訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする。 | 三国史記(新羅本紀) |
364年 | 倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山の麓に並べ、1千人を斧峴の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする。 | 三国史記(新羅本紀) |
390年 | 新羅の第十七代那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。 そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を副使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。 | 三国遺事 |
391年 | 高句麗に属民として朝貢していた新羅・百済を倭が破り、臣民とする。 | 高句麗好太王碑 |
393年 | 5月に倭軍が侵入し首都金城を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。 | 三国史記(新羅本紀) |
396年 | 好太王は兵を率いて百済の城々を占領。兵が首都を包囲するに到り、百済は降伏し高句麗への服従を誓った。 好太王は百済王子と貴族子弟を人質と成し、また多数の奴隷を連れて首都へ引き返した。 | 高句麗好太王碑 |
397年 | 百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に差し出し服属した。 | 三国史記(百済本紀) |
399年 | 百済が高句麗との盟約を破り倭と同盟。 好太王は平壌へ侵攻した。 平壌で、使者としてやって来た新羅の王の謁見を受けた、使者は倭軍が国境を越え新羅と戦闘を行っている窮状を訴え、高句麗に臣従を誓った。好太王はその忠誠心を善として、救援を許した。 | 高句麗好太王碑 |
400年 | 高句麗は5万の大軍を派遣して新羅を救援。 新羅の首都を包囲していた倭軍は高句麗軍が着くと撤退を開始した。高句麗軍は倭軍を追って任那加羅にある從拔城を攻めると、城の兵民は高句麗に降伏し、攻め落とした。倭軍は塩城を囲んだが、兵民の大半は倭への降伏を拒んだ。 その間、倭の同盟国である安羅の軍によって新羅の城が次々と攻め落とされていた。 | 高句麗好太王碑 |
402年 | 百済は使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。 | 三国史記(百済本紀) |
402年 | 三月、新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師今の子、未斯欣を人質として倭に送った。 | 三国史記(列伝) |
402年 | 三月に新羅は倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 | 三国史記(新羅本紀) |
403年 | 倭国の使者が来たので、百済の阿莘王はこれを迎えて慰労し、特に厚く遇した。 | 三国史記(百済本紀) |
404年 | 倭が帯方郡国境を越えて高句麗に侵攻。 高句麗王は平壌から進軍し、倭を大敗させる。 | 高句麗好太王碑 |
405年 | 百済の阿莘王が薨去。 王の次弟である訓解を摂政として、太子の腆支が国に帰るのを待ったが、王の末弟である碟禮が訓解を殺して、自立して王となる。 倭にいた腆支は阿莘王の訃報を聞き、哭泣して帰国を願う。 倭王は兵士百人を護衛に付けて送らせた。国境に至ろうとした時、漢城人の解忠が来て「大王が世をお棄てになり、王弟の碟禮が兄を殺して自ら王になりました。太子が不用意に入国されないことを願います」と言った。 腆支は倭人を留め自らを護衛させた。海中の島で、時の来るのを待った。国人が碟禮を殺して、腆支を迎え即位した。妃の八須夫人が王子久尒辛を産んだ。 | 三国史記(百済本紀) |
405年 | 倭兵が新羅の明活城を攻めるが勝てず撤退した。新羅王自ら追撃し、倭軍は敗れ三百人が戦死した。 | 三国史記(新羅本紀) |
407年 | 春三月、倭人が新羅の東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻め百人を捕らえて連れ去った。 | 三国史記(新羅本紀) |
408年 | 春二月、新羅王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。 倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站を撃破しようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」 王はこの意見に従った。 | 三国史記(新羅本紀) |
409年 | 倭国が使者を遣わし、夜明珠を送ってきた。百済王(腆支)はあつく礼遇して、歓待した。 | 三国史記(百済本紀) |
413年 | 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。 | 『晋書』安帝紀 『太平御覧』 |
415年 | 八月、新羅は倭人と風島で戦い、勝った。 | 三国史記(新羅本紀) |
418年 | 百済は使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。 | 三国史記(百済本紀) |
418年 | 新羅。高句麗への人質(卜好)が堤上奈麻と共に帰った。倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。 | 三国史記(新羅本紀) |
421年 | 倭讃、宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」。 | 『宋書』夷蛮伝 |
425年 | 倭讃、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。 | 『宋書』夷蛮伝 |
428年 | 倭国からの使者が百済に来たが、随行者が五十名であった。 | 三国史記(百済本紀) |
430年 | 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。 | 『宋書』文帝紀 |
431年 | 倭兵が、新羅の東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。 | 三国史記(新羅本紀) |
438年 | これより前、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。詔して「安東将軍倭国王」に除す。 | 『宋書』夷蛮伝 |
438年 | 4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。 | 『宋書』文帝紀 |
438年 | 珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。 | 『宋書』夷蛮伝 |
440年 | 倭人が、新羅の南の辺境に侵入し奴隷を奪い取って去った。夏六月にまた東の辺境を攻める。 | 三国史記(新羅本紀) |
443年 | 済、宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。 | 『宋書』夷蛮伝 |
444年 | 夏四月に、倭兵が新羅の金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。王は兵を出して追撃しようとした。 臣下は「兵法家の説に拠れば、追い詰められた賊を追っ手はならない」と言ったが王はこれを聞き入れなかった。 数千の騎兵を率いて追撃して獨山の東で合戦したが倭軍に敗れ、将兵は過半数が死んだ。王は慌てふためいて馬を棄て山に登った。賊がこれを幾重にも囲んだ。突然霧が出てあたりが暗くなり、一寸先も見分けが付かなくなった。賊は「これぞ陰助だ」と言って、兵を収めて撤退した。 | 三国史記(新羅本紀) |
451年 | 済、宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。 | 『宋書』倭国伝 |
451年 | 7月、済「安東大将軍」に進号する。 | 『宋書』文帝紀 |
451年 | また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。 | 『宋書』夷蛮伝 |
459年 | 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って新羅の東辺を襲い、進撃して月城を囲んで四方八方から矢や石を雨あられと打ち込んだ。王城守は賊将を退け、出兵してこれは撃破し、北に追撃して海口まで行った。賊軍で溺死する者が過半数に達した。 | 三国史記(新羅本紀) |
460年 | 12月、倭、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 | 『宋書』孝武帝紀 |
462年 | これより前、済没し、世子の興が遣使貢献する。3月、宋・孝武帝、興を「安東将軍倭国王」とする。 | 『宋書』孝武帝紀、夷蛮伝 |
462年 | 夏五月に、倭人が新羅の活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。 | 三国史記(新羅本紀) |
463年 | 倭人が新羅の歃良城を攻めるも勝てずして去った。王は伐智・德智に討伐を命じた。領兵が路に隠れて待ち伏せし、倭軍を要撃して大敗させた。王は以後、倭人が頻繁に国境、海岸を侵犯するので、国境、海岸に城を二つ築いた。 | 三国史記(新羅本紀) |
468年? | 泰始四年夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16日、火徳の旺んなる丙午の日の正午の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。 先代以来未だ此のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗めて造った。後世に伝示せんかな。 | 石上神宮七支刀 |
476年 | 夏六月、倭人が新羅の東辺を攻める。王は将軍德智に命じてこれを撃敗させた。殺したり捕虜にした者が二百人あまりいた。 | 三国史記(新羅本紀) |
477年 | 11月、倭、遣使して貢物を献ずる。 | 『宋書』順帝紀 |
477年 | これより前、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。 | 『宋書』夷蛮伝 |
477年 | 倭人が兵をあげて新羅の五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。 | 三国史記(新羅本紀) |
478年 | 倭王武、上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。 順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。 | 『宋書』順帝紀、夷蛮伝 |
479年 | 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。 | 『南斉書』東南夷伝 |
482年 | 五月に倭人が新羅の辺境を攻める。 | 三国史記(新羅本紀) |
486年 | 夏四月に倭人が新羅の辺境を攻める。 | 三国史記(新羅本紀) |
497年 | 夏四月に倭人が新羅の辺境を攻める。 | 三国史記(新羅本紀) |
500年 | 春三月、倭人が新羅の長峯鎮を攻め陥した。 | 三国史記(新羅本紀) |
502年 | 梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。 | 『梁書』武帝紀 |
512年 | 高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請。大連・大伴金村はこれを承認する代わりに五経博士を渡来させた。 | 『日本書紀』 |
527年 | 磐井の乱。 朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫国造磐井がはばもうとして反乱を起こす。翌年、物部麁鹿火によって鎮圧された。 | 『日本書紀』 |
600年 | 第一回遣隋使。 大王(おおきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。 | 『隋書』「東夷傳俀國傳」 |
607年 | 第二回遣隋使。 小野妹子・通訳鞍作福利を遣わす。小野妹子に返書を持たせ、煬帝の勅使として裴世清が派遣される。小野妹子、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。妹子は返書の紛失を奏上。 | 『日本書紀』 『隋書』俀國伝 |
608年 | 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送った。その際に百済の南路を経由した。 | 三国史記(百済本紀) |
608年 – 609年 | 第三回遣隋使。 小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わす。学生として倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧として僧旻・南淵請安・志賀漢人慧隠ら8人、隋へ留学する。 隋使裴世清帰国する。 | 『日本書紀』 『隋書』俀國伝 |
610年 | 第四回遣隋使。 第三回の年次誤りか。 | 『隋書』煬帝紀 |
614年 – 615年 | 第五回遣隋使。 犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。 | 『日本書紀』 |
630年 | 第一回遣唐使。 大使・犬上御田鍬、副使・薬師恵日。朝鮮半島経由の北路を通ったとされる。 | 『日本書紀』 |
631年 | 第一回遣唐使一行が皇帝太宗と謁見。太宗はその道中の遠いことに同情し、以降の毎年の入貢を止めさせた。 | 『旧唐書』 |
632年 | 第一回遣唐使一行が帰国。唐の送使高表仁及び新羅の送使が同行来日し、僧旻・勝鳥養・霊雲らも同行帰国した。 8月に対馬に帰着。高表仁らは10月4日に難波津に着き、翌年1月26日に帰国した。 | 『日本書紀』 『新唐書』 |
645年 – 650年 | 大化の改新 | |
651年 | 左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子に新羅征討を進言したが、採用されなかった。 | 『日本書紀』 |
653年 | 第二回遣唐使。 第1船は121人、第2船は120人。第1船・大使吉士長丹・副使吉士駒。第2船・大使高田根麻呂・副使掃守小麻呂。出航より一月半後の7月、第2船は往途の薩摩沖で遭難し100余名が死亡または行方不明。 第1船は唐に到着し皇帝に拝謁した。 | 『日本書紀』 |
653年 | 義慈王は倭国と修交した。 | 三国史記(百済本紀) |
654年7月 | 第二回遣唐使、新羅・百済の送使と共に帰還。 | 『日本書紀』 |
654年 | 第三回遣唐使。 押使・高向玄理、大使・河辺麻呂、副使・薬師恵日。長安にて高宗と謁見した。謁見の際、日本の位置や神話を尋ねられた。 | 『日本書紀』 |
654年12月 | 永徽5年12月に、倭国が瑪瑙を献上した。 | 『旧唐書』 |
655年8月 | 第三回遣唐使帰朝。 | 『日本書紀』 |
658年4月 | 越国守阿倍比羅夫が船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。 | 『日本書紀』 |
658年 | 越国守阿倍比羅夫が粛慎を平らげ、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する。 | 『日本書紀』 |
659年3月 | 越国守阿倍比羅夫が船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。後方羊蹄(シリベシ)に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った。 | 『日本書紀』 |
659年7月 | 第四回遣唐使。 大使・坂合部磐鍬、副使・津守吉祥。第2船の津守吉祥らは洛陽にて皇帝高宗に拝謁。大和朝廷の服属国民として蝦夷人男女を皇帝に献上している。 第1船は往途で遭難、漂着の末に略奪に遭い、大使の坂合部磐鍬が殺されている。生存者5人は洛陽に辿り着いている。 唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって十カ月ほど長安に幽閉・抑留された。 | 『日本書紀』 『伊吉博徳書』 『難波吉士男人書』 |
660年3月 | 越国守阿倍比羅夫が船軍200艘を率いて粛慎を討つ。大河のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。粛慎を幣賄弁島(へろべのしま)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。 | 『日本書紀』 |
660年3月 | 新羅からの救援要請を受けて唐軍は百済に攻め入る。 | 『旧唐書』東夷伝 |
660年7月18日 | 百済が唐軍・新羅軍に敗れ、滅亡する。 | |
660年9月12日 | 唐によって長安に抑留されていた第四回遣唐使一行が解放される。 | 『日本書紀』 『伊吉博徳書』 『難波吉士男人書』 |
百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵を挙げ、倭国に人質として滞在していた百済王の太子余豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請。 中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに唐・新羅との対立を深めた。 | ||
661年 | 耽羅、第四回遣唐使が漂着したことを機に王子・阿波伎等を日本に派遣し入貢。 | 『日本書紀』 |
661年2月 | 斉明天皇、百済救済のため自ら船団に乗り筑紫へ出港。 | 『日本書紀』 |
661年4月 | 第四回遣唐使帰国。 | 『日本書紀』 |
661年5月 | 白村江の戦い第一派出発。1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。余豊璋を護送する先遣隊。 | 『日本書紀』 |
661年8月 | 斉明天皇崩御。第38代・天智天皇が即位(称制)。 | 『日本書紀』 |
661年9月 | 朴市秦田来津、狭井檳榔と共に兵士5000を率いて、百済の王子扶余豊璋を百済に衛送。 | 『日本書紀』 |
662年3月 | 白村江の戦い第二派出発。軍主力の2万7千人。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫。 | 『日本書紀』 |
662年5月 | 阿倍比羅夫を百済救援に派遣、倭国は余豊璋を百済に送り王位を継がせる。 | 『日本書紀』 |
662年 | 百済の王子・扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。 唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。 | 三国史記(百済本紀) |
663年 | 倭国の水軍が来て、百済を助ける。 | 三国史記(新羅本紀) |
663年 | 倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功。 | 『日本書紀』 |
663年3月 | 阿倍比羅夫ら、新羅征討のため出発。 | 『日本書紀』 |
663年6月 | 前将軍・上毛野君稚子ら新羅の沙鼻岐奴江、二つの城を攻め落とす。 | 『日本書紀』 |
663年(旧暦) 8月27日 – 8月28日 663年(ユリウス暦) 10月4日 – 10月5日 | 白村江の戦い。 倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗する。大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 倭国は朝鮮半島における勢力圏を完全に喪失した。 | 『日本書紀』 |
665年12月 | 第五回遣唐使。 送唐客使・守大石。同年秋に250余人の大使節団と共に来日した唐使の劉徳高らを送る使節である。 送使であり、高宗の即位式への参列を求めた使節であるとされる。 | 『日本書紀』 |
667年11月 | 第五回遣唐使、唐の百済鎮将(旧百済占領軍)の劉仁願が派遣した文官の司馬法聡と共に帰国。 | 『日本書紀』 |
667年 | 第六回遣唐使。 送唐客使・伊吉博徳、副使・笠諸石。同年11月に来日した唐使の司馬法聡の帰国(旧百済国の占領地へ帰還)を送る使節。 | 『日本書紀』 |
668年 | 第一回遣新羅使。両国共に白村江の戦い以降の、国交回復を目的とした使節と考えられる。 | 『日本書紀』 |
668年 | 第六回遣唐使帰朝。 | 『日本書紀』 |
669年 | 第七回遣唐使。 大使・河内鯨。唐に高句麗平定の祝賀を述べる使節と推測される。 | 『日本書紀』 |
670年 | 十二月、倭国が国号を日本と改めた。 自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。 | 三国史記(新羅本紀) |
670年 | 第二回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
675年 | 第三回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
676年 | 第四回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
679年 | 日本から遣耽羅使を派遣。 | 『日本書紀』 |
681年 | 第五回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
684年 | 日本から遣耽羅使を派遣。大使・犬養連手纏、小使・川原連加尼。 | 『日本書紀』 |
684年 | 第六回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
687年 | 第七回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
692年 | 第八回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
695年 | 第九回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
698年 | 三月に日本国から使臣が来たので、新羅王は崇礼殿で引見した。 | 三国史記(新羅本紀) |
700年 | 第十回遣新羅使。 | 『日本書紀』 |
701年ごろ | 国号が倭・倭国から日本へ改められる。 | |
701年 | 大宝律令制定。 | |
702年6月 | 第八回遣唐使。 執節使・粟田真人。初めて対外的に「日本」の国号を使用し、首都・藤原京を定め造営したこと、法である大宝律令を制定したことを示し、国としての体裁を上昇させた上で、白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的としていた。 そのため、朝廷での格も高く、大宝律令の編纂に関わった粟田が使節として派遣されたと推測される。 一行は楚州に到着し、どこからの使者か、との問いに「日本」と返答している。 | 『日本書紀』 |