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- タイトル
- さようなら、ギャングたち
- 著者
- 高橋源一郎
- 形式
- 小説
- ジャンル
- ポップ文学
- 執筆国
- 日本
- 版元
- 講談社
- 初出
- 群像、1981年12月号
- 刊行情報
- 講談社文芸文庫
- 受賞歴
- 第4回群像新人長編小説賞優秀作
詩人の「わたし」と恋人の「S・B(ソング・ブック)」と猫の「ヘンリー4世」が営む超現実的な愛の生活を独創的な文体で描く。発表時、吉本隆明が「現在までのところポップ文学の最高の作品だと思う。村上春樹があり糸井重里があり、村上龍があり、それ以前には筒井康隆があり栗本薫がありというような優れた達成が無意識に踏まえられてはじめて出てきたものだ」と絶賛した高橋源一郎のデビュー作。
僕にとって高橋源一郎の小説は難しい。どんなことを伝えようとしているのか、どんなことを表現しようとしているのか、そもそもなにかを伝えようとしているのか。そんなことすらよく分からない。麻布中学から灘中学、灘高校、横浜国立大学(この年東大入試が中止となり、京大を受験したものの不合格だったという)と進んだ秀才とはそもそも頭の出来が違うんじゃないかとも思ったりもする。一種の失語症に罹っていたというエピソードからするにきっとそれは間違っているのだろうけど。
僕が高橋源一郎の小説を読む理由は一つしかない。それは「吉本隆明が高く評価したから」。つまり「好きな人が評価しているのだから読もう」ということだ。大江健三郎からサルトルを読んだ人がいたように、安部公房からカフカやガルシア=マルケスを読んだ人がいたように、村上春樹からフィッツジェラルドやサリンジャーを読んだ人がいたように、伊坂幸太郎から島田荘司や大江健三郎を読んだ人がいたように、中村文則からドストエフスキーや太宰治を読んだ人がいたように、僕もそういうことをしたというだけだ。
今回の『さようなら、ギャングたち』にしたところで、僕にこの小説を解説する能力はない。とにかくは読み終わり、ストーリーや言葉を確認したところで、小説の核心みたいなところに触れられたという実感がまるでないのだ。僕はそういう核心に触れたと思うことで読書を楽しんできたし、これからも楽しんでいくことになると思う。それが残念ながらなんらかの勘違いだとしても、そうやっていくことにこだわってしまうと思うのだ。
本作の主人公は詩の学校で詩を教えているという講師だ。アメリカ合衆国の大統領たちが次々に暗殺されてしまうほどギャングたちが暗躍しているという世界が舞台。全体は三章に別れており、それぞれ、「わたし」と女性と子どもについて、詩と詩の学校について、「わたし」と「S・B」と「ヘンリー四世」とギャングについて語られる。
だが、ここではあらすじを語ることから離れてみたい。本作は小説で、つまり詩でもなければ戯曲でもないのに、どんなストーリーが展開されているかということより、どんな言葉がちりばめられているかの方が重要な気がしてしまうからである。(加藤典洋の解説によるとそれは間違っているようだが)
わたしとそいつは学校の廊下に立たされていた。
長い間詩を書き続けてきたという「わたし」が詩人であることを告げられたのは17歳の時であったという。先生の質問に上手く答えることのできなかった「わたし」はそいつと共に廊下に立たされている。そしてそいつは「わたし」が卒業式の日にも廊下に立っていて、「わたし」に向かって「君は詩人にむいている」と告げるのである。
僕はこの章を訳も分からずに読みながら、妙な感慨にふけった。それは高校や大学を卒業した後に在学中の大切な思い出を振り返る瞬間の感情のようでもあった。もっといえば、「○○は小説が好きなんだから文学部に行くんじゃないの?」と友人に言われた時のようでもあった。そして他の可能性を放り投げて、とある進路に進むことを決めた時のようでもあった。
またここで僕の感傷的な気分を高めたのが、「わたし」の詩の読者が少なかったという描写である。
わたしはたくさんの詩を書いてきた。
しかし、わたしの詩の読者はいつも少なかった。その数はかなしいほど少なかった。
わたしが20歳になるまで、わたしの詩の読者は三人しかいなかった。
一人はわたしだった。
僕らがどれだけの熱意をもって進路を選択したところで華々しい未来が待っているとも限らない。誰かに勧められて進路を選んだところで成果が出るかも分からない。「君は詩人にむいている」と言われた「わたし」も多くの読者を獲得できたわけではなかった。
高橋は『さようなら、ギャングたち』『虹の彼方に』『ジョン・レノン対火星人』の3作で自分の個人的な1960年代を書きたかったとしている。僕はもちろん彼の「個人的な60年代」とやらを直接には知らない。しかし、詩と言葉、死と名前がちりばめられた悲しげな本作を読むと、その時代が順風満帆な日々ではなかったのではないかと想像してしまう。むしろ孤独と不安に満ちたむしゃくしゃする日々だったのではないかと考えてしまうのだ。
最初に書いたように、僕にとって高橋源一郎の小説は難しく、本作についても理解できたとはとても思えない。読み終わった後には、毎回必ず「意味わかんない小説だったな」と思う。それでも、読んで無駄だったな、とか、金返せよ!と思わないあたりが彼のすごさなのだろう。
高橋が師匠と慕う吉本隆明の詩には以下のような一節がある。僕は本作を読んでその一節を思い浮かべた。この繋がりというか連想が正しいかは分からないが、あながち遠くもないだろうと信じている。
おう きみの喪失の感覚は
吉本隆明『転位のための十篇』より分裂病者
全世界的なものだ
きみはそのちひさな腕でひとりの女をではなく
ほんたうは屈辱にしづんだ風景を抱くことができるか